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戦争を経験した両親の生の体験記と戦後の日本の食事。戦時中の食事を再現しました。今次世代に伝えたいこと。

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戦争を経験した両親の生の体験記。戦禍の中、戦後の混乱の中で何を食べて過ごしていた?今私たちが次世代に伝えたいこと。


毎年この時季になると、戦争を題材にしたドラマやドキュメンタリーがテレビでも放映されていますね。

今では戦争を体験したご年配の方々の生の体験談を聴く機会が少なくなりました。
貴重な人生の先輩方のお話を風化させたくない想いで今回テーマとさせていただきました。

お盆に実家に帰省しました。

筆者も幼い頃から戦争を実際に体験した両親から話を聴いて育ってきましたが
改めてゆっくりと話を聴いてきました。両親は堰を切ったようにどんどん話をしてくれました。

戦争の話を次世代に伝えたい気持ちがあったのだと思います。
父は近所の平和資料館に、先日講演に行ってきたそうです。

会場のみなさまから拍手喝采を受け、「自分の体験が役にたって嬉しかったんだよ。」と言っていました。

戦争が奪った、父の思春期時代の学校教育

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89歳の父は昭和4年 8人兄弟の6男として生まれました。
幼少の頃は北海道・小樽市に住み、当時街には馬車が走っていたという。

その後は三重県伊賀神戸町(現在の鈴鹿市)に住んでいました。
残念ながら当時の写真は一切残っていません。

昭和16年12月8日開戦時は小学校6年。翌昭和17年には中学に入学するも
昭和18年から戦禍が激しくなり、14歳の春から学徒動員として山口県岩国市へ海軍の海兵隊へ入団。

移動は汽車だったそうですが、窓を開けることは一切許されず。
真っ暗な汽車の車内での長時間の移動だったそうでとても不気味な車中だったといいます。

なぜ真っ暗にしなければいけなかったのか。
その理由は瀬戸内海を運行中、窓から人影が見えればすぐさま湾岸にいる敵の空海軍から狙われるからだったと。

全寮制の岩国の基地では勤労奉仕として兵隊の宿舎で藁布団を敷いたり、手旗信号を習ったり、
石炭を炊くことを朝の7時から夜の10時まで行っていたそうです。

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半年間の水平の訓練を受け、昭和18年秋に自宅に一時帰宅もすぐに三重県四日市市の紡績工場で働きました。
そこは軍服を作る工場。父は機械に油をさしたり、歯車の取り換えなどを行っていたといいます。
父がいた紡績工場の近くには、海軍の燃料省(現在の四日市石油コンビナート)があったそうです。

日本が戦争に抵抗する力が徐々に弱くなっていった昭和19年。父15歳。
B29の爆撃機が名古屋を攻撃しました。

父は遠くから高みの見物で見て「なかなかこっちには来ないなぁ。」と思っていた矢先、近くの海軍の燃料省が爆撃をうけました。

父は防空壕に逃げ込んで無事だったそうですが、やがて紡績工場にも戦禍が。
焼かれた工場の後片付けをしていた時にも容赦なく焼夷弾を受け、
顔中血だらけになったことが4度もあったといいます。

その後、昭和20年8月。工場の後片付けをしていたときに玉音放送を聴いたといいます。父16歳でした。
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戦後は地元の旧制中学に進み、船舶運営会へ入団。
のちに海運会社へ機関士として働くこととなり、世界中の海を航海します。

この船内でも40度の室温の中、アスベストを巻く仕事に従事していました。

原因不明の伝染病にかかることもあり過酷な労働状況だったそうですが
外国の陸地へあがり、知らない町を旅することが楽しみだったそうで、それを思うと頑張れたそうです。

ちなみにあの頃フィリピンで食べたバナナの味が忘れられないとのことで、
60年以上経った今でも父の大好物はバナナです。

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(写真は父が船乗りの頃に撮った写真。昭和30年頃)

戦争が奪った、母の成長期の栄養と両親死後の戦後の苦労

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82歳の母は昭和11年、東京都渋谷区広尾で長女として生まれ裕福な家庭で育ちました。
ボーイスカウトを日本に紹介する為に海を渡った父(おじいさま)は文才もあり、

戦後は代々木で通訳の仕事を行っていたそうです。
母の昔のアルバムには子煩悩なおじいさまと一緒に映った写真が数点残されていました。

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(昭和16年の東京・銀座を家族で歩く母の家族。この年、末っ子が死産し洗礼をしたとの記載が)


昭和19年。富山へ学童疎開した母は2つ下の妹(叔母)と一緒に寺で過ごしたそうです。
しかしご飯は麦飯の茶碗1杯と梅干し、畑で採れた野菜がほんの少し。

お国の為に学校の代表として来ている疎開。わがままは一切言えない状況だったそうです。

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(”家族と別れて暮らした少年少女の400日 こんな時代があったんだ” 常磐松小城端会)
 
風呂には入れず虱(しらみ)は全員が飼っていたそうで、毎日格闘したといいます。
衣服を煮沸しても、深い雪の中にも生き返ってきたそうです。

しらみに喰われた血で霜降り状になったシャツやパンツをみて、
面会にきた親御さんが泣いていたともいいます。

栄養失調であちこちできものができ、冬の寒い日にはそれが割れて大変つらかったといいます。
(”家族と別れて暮らした少年少女の400日 こんな時代があったんだ” 常磐松小城端会 手記 より)

唯一の楽しみは『およばれ』という地元の方々の、いわばショートステイ。
母は薬屋さんにおよばれに行きました。

お腹がいっぱいになるまでごちそうを食べることができたのはこの『およばれ』の2回のみだったといいます。

昭和20年。戦争が終わった頃母は栄養失調となっていました。

渋谷から富山まで迎えにきたおじいさまは娘のあまりの変わり果てた姿に驚き、
山中温泉を経由して温泉でひと休みさせて連れて帰ってくれたと言っていました。

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(昭和18年4月 母小学校入学当時の写真)


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(終戦後の昭和20年8月 疎開先の富山から帰る途中、山中温泉に立ち寄ったときの写真)


住んでいた自宅は東京大空襲で焼夷弾で焼かれ、一面焼け野原になっていたといいますが、
東京の戦後の混乱した中でも、ドイツ人の先生に歌を習いにいけるほど裕福な生活をしばらくの間は送っていたそうです。

しかし運命は非常なものでした。
中学に入学してすぐ、おじいさま、おばあさまは戦後まもなくして病死してしまいました。

そこからは叔母と生活保護を受けることとなり、
まもなくして大阪府豊中市に住むおじいさまのお姉さん(昔私達と同居したおばあさん)の家に身を寄せることとなりました。
母が言うには、男尊女卑の考え方をもつおばあさんのもとでの生活も「地獄だった。」といいます。

中学といっても学校には行かせてもらえず、ほぼ毎日畑仕事の手伝い。
隠れて勉強をする時代。中学卒業後は手に職をつけるため美容学校へ。
高校・大学には行けませんでした。

若くして父と結婚。父とはおばあさんが決めた政略結婚でした。
そしてその後30年、両親、私の家族はおばあさんと同居していました。

戦時中はどんな食べ物を食べていた??


父の働く四日市の工場では男性は麦ごはん1皿、女性はその半分。
おかずは工場の裏庭で採れた野菜を煮たもの。肉はクジラ肉を食べていたそうです。

「いつになったら白いご飯が自由にたくさん、子ども達に食べさせてあげられるのかしら。」
疎開仲間である母の友達のお母さまが仰っていた、時代を映し出した言葉。


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一方で母は疎開中はご飯は麦飯の茶碗1杯と梅ぼし、畑で採れた野菜がほんの少し。
昼は遠足という食糧探しに行っていたそうです。

つつじがあればご馳走。がくの部分の甘い汁が飲めるからだそうです。
飛んでいる蜂をとって食べる強者もいたそうです。きっと甘い蜜を吸っているだろうと。

「子ども達の甘い食べ物への執念は恐ろしいものだ。」と書籍には書いてありました。
食べられる草は何でも口にした、特に野蒜(のびる)はよく食べていたそうです。

イナゴが飛んでいれば獲って晩ごはんに食べたといいます。
(”家族と別れて暮らした少年少女の400日 こんな時代があったんだ” 常磐松小城端会 手記より)


母は、おばあさまが荷物にお手玉を入れて送ってきてくれたとききました。
お手玉のなかにはおばあさまが小豆をしのばせてくれて、それを食べて過ごしたといいます。

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戦時中、両親が食べていたもの。

父はのっぺ汁、大根や菜っ葉を炊いたもの。生野菜は食べませんでした。(今も食べない)芋類(さつまいも)は多く食べていたそうです。
米が少なくなってからは麦(丸麦)、味噌汁はメリケン粉で小麦団子を作り、すいとんとして
主食代わりにしていたそうです。あまり美味しいものではなかったのだとか。

当時の食事を再現してみました。

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大根の煮物


大根や芋は干すこともできるので重宝したといいます。
芋のツルを煮たものも多かったといいます。
特に芋はどの畑でも生育がよく、たくさんとれたので畑で作っていた家は多かったそうです。

すいとんの味噌汁


小麦の団子は味がないので美味しくありませんでした。
しかし、この味噌汁1杯だけ、という日も少なくなかったといいます。
まだ具があるだけいい。具がないことのほうが多かったと両親は言っていました。

麦飯(丸麦)


とても腹持ちがいいですね。
今ではじっくり消化するため健康食として用いられていますが
当時は腹持ちをよくするために食べていた、白米なんぞめったに食べることができなかったといいます。

ウサギは食用として育てていた

あと、父の話では田舎ではウサギを飼う家が多かったそうです。エサは雑草で経済的、
ウサギを大きく成長させてある日、食用としてみんなで食べていたといいます。

戦後の食べ物


焼け野原の小学校があった場所に畑を作り、水を家から組んできて小松菜を作ったと聞いています。
米と魚は配給制度でした。

人数に合わせたものしかもらえなかったそうです。

その後母と叔母が身を預けたおばあさんの家。

明治生まれの男尊女卑の考えのおばあさんの家では、食べるご飯はお冷ご飯どころではない、
ツンと臭いのする黄色く腐った飯だったのだそう。

それを流し込むために梅干しや昆布といったごはんの友は必要だったといいます。
今でも母は冷蔵庫に常備する習慣があるといいます。

おかずは煮物が中心。
これも男性が先に食べたあと、残りを女性が分け合うといった生活だったといいます。

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肉は食べることができません。
食べていたのは鶏の皮のみ。

だから今でも母は鶏が苦手です。

ほぼ野菜中心の生活を送っていた母


そんな中、母が主に食べていたものはキャベツ。
おばあさんの畑でできたキャベツばかり食べていたといいます。

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麦茶に塩

実家で飲んだ麦茶がとても美味しくて聴いてみたら塩を入れているのだと。
麦茶に塩を入れるということはおばあさんが教えてくれた知恵だそうです。
今でいう”熱中症対策”。昔の人はそうやって夏を乗り越えていたんですね。

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私達は食べものを粗末にしていませんか?
今はすぐに廃棄してしまう世の中。私達は必要なものを吟味し、無駄な廃棄(食品ロス)を減らすべきだと思いませんか。

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今、社会問題にもなっている食品ロス。

ご家庭でも冷蔵庫に残ったままの野菜が干からびて捨てたり、
冷やごはんを処理することができないまま廃棄したり、ということがありませんか?

辛かった戦時中、戦後を過ごしたご年配の方々が大切にする食べ物を敬う心

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戦時中、戦禍を乗り越えてこられたご年配の方々が「ものを捨てない」とよく言われます。
うちの両親もまさにそう。

冷蔵庫に賞味期限切れのものがあっても「まだ大丈夫」と捨てることをしません。

それは戦時中、戦後どれだけ食べるものがなくて苦労をしたか、知っているから。
白いご飯をお腹いっぱいに食べることができる世の中を夢見ていた日があることを知っているから。

 と両親は言います。

私達が今すぐできることは、必要なものを吟味し、厳選し納得して購入すること。

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私達が今できること。

それは必要なものを必要なだけ買う。
使うために買う。
そして物を大切に扱うこと。


作り手さんが丹精込めて作られたものを粗末にできますか?

私達が次の世代へ伝えなくてはならないこと。

”在ることが難しい”。そのことを”ありがたい”と思って頂くことが重要です。

良質なものを適量大切に使うためにもオーガニックの大切さが浮かび上がります。

今では戦争の体験話を聴く機会が年々少なくなってきました。

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もしもご年配の方が身近にいらっしゃってお話を聴く機会があれば、ぜひ戦争の話をじっくりと聴いてください。
人によっては辛く、思い出したくない過去かもしれませんが、きっと話して下さるかたがいらっしゃいます。

それはきっと、次世代に伝えてほしい大切なメッセージだと筆者は考えています。

今でも父と母は仲がよろしくないです(笑)
けれどこの戦争の話をするにあたり、結束力があったというか、「あれだったよね。」「こうだったよね。」と珍しく会話がはずんでいました。

思うところは一緒だったんでしょう。
両親が今でも元気で過ごせることは、「今でも野菜を中心とした食生活を送っているから」といいます。

「戦争はあかんよ。すべてがぐちゃぐちゃになった。何もかも。」


戦禍をくぐりぬけてきた両親からの悲痛なメッセージ。
私も子ども達に伝えていきたいと思います。

これからも、世代を超えて。


大切なものを大切に使おう。オーガニックの大切さに触れるIN YOUMarketで良質な食材を選んでみませんか?

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