疲れた><
嫌われる覚悟を持って生きることは「自立」を意味する。他人に嫌われるよりも恐ろしいこと。
本物のオーガニックが見つかるオーガニックショップ
わたしが3年前にIN YOUの事業を公式にリ・スタートした時、ほぼ一人のような状態からでした。
あの時のことを忘れもしません。
オシャレなシェア・ワークプレイスのデスクの一人席に座って都会の景色を見ながら働く。
スタッフは私だけ。
そこにあるのは、
・・・・かつて経験したことのないような心の開放感でした。
なぜならそこにあるのは、パソコンと机と自分だけ。
全ては自分次第。
元々は心の寂しさを解消するために本格的に、仕事を始めた
実は、起業をして少ししてから生きる意味、世に何かを残したいとか、自分なりの意味を見出しましたし、
なぜ仕事をしているのかをはっきり自覚するようになりましたが、
本当の本当に初期はもしかすると自分の心の虚しさを解消する何かをずっと、求めていたのかもしれない、と思います。
実は、起業する前までの自分はどこかいつも心の中に虚しさや寂しさを抱えて生きていました。
寂しさの正体とは
それが、一体どこからくる寂しさだったのか・・・。
その時はよくわかりませんでしたが、
今改めて紐解くと、おそらく、未来や孤独への恐れと、他人への依存という文字が浮かび上がります。
「将来どうなるかわからない」
「他人と比べて虚しくなる」
「自分に対してプライドを持てない」
「いつも空虚な気持ち」
過去の私も、話が長くなるほど紆余曲折。
不幸のどん底だったわけではないのですが、どこかいつも満たされなさがあったのです。
思い返すと、その当時はフォーカスすべき今ここに必要な、「生きがい」がなかったからだったことに気がつきました。
「今ここ」に存在しないものばかり求めていると、人は寂しくなる
ここからは私が自分なりに分析したことになります。
人は皆下記のように「今ここ」にはないものばかり生きる傾向にあります。
例えば、
「友達がもっと欲しい」
「理想的な仕事をしたい」
「面白いことはないかな」
「たくさんのメールやお誘いが欲しい」
「ドキドキワクワクすることはないかな」
「理想的な恋人が欲しい」
こうなると、もはや今にはフォーカスできていないことになるので、いつも目線は今ではなくなります。
今を生きていないということは、今の自分はダメ今の現状はダメ、という判断を自ら下しているということ。
つまり今を否定しているということ。
口先では「感謝している」とか「今を生きたい」とか言っていても、実はこころ、ここにあらず。
今がダメということは、ネガティブ、不満からスタートしているので、
いつまでたっても心の中はみたされるわけが、ありません。
たとえ1つのことが満たされたとしても、次、次、もっともっと。
足りない足りない足りない。
どんどん欲しくなるだけで、
いつまでも心は、WANTWANT 今あるものに価値がないと考えているから、寂しいまま。
逆に今あるものに無我夢中にフォーカスしたらどうなる?
目の前の大切なことに全力投球し、大切な人たちに愛を注げば寂しさはただちに消える。
逆に、今ここにある時間にフォーカスし、自分ができる最大限にチャレンジすればどうなるかというと、
寂しいとか虚しいという気持ちは一切、無くなります。
その証拠に私は一生懸命仕事をしていて全然関係ない他のことや他人についてクヨクヨ考えることはあまりありません。
寂しい、虚しいというのは本当に誰か他の人に対しての寂しさ?
それとも、現状に満足できていない自分への寂しさ?考えてみて。
友達も仲間も、彼氏もペットも、他者であり、決して自分ではありません。
だから、あの子がもっとこうしてくれないから、私は寂しい。
ペットがいないから寂しい・・・。
という具合に、いつも寂しさ・虚しさの矛先が外部の要因にいきがちです。
持論になりますが、私は寂しさの原因は「誰々が自分を認めてくれない」とか「誰々が自分に尽くしてくれない」とか、一見外部の要因ありきのことに見えますが、
本来は、他者にあるのではなく、実は自分の心の中を表しているだけ。
自己の中に生きる意味さえ見つけ、今に最善を尽くしていれば
そのような感情は大きな決別などイレギュラーな事態を除いて日常的には起こらないではないかと考えています。
そして、自分が「たりない」と今、思っていることがあるとすれば
それは自分が他人に対してできていないことなのかもしれません。
例えば人から、愛されていないと思うなら、自分も人を、愛していないとか。
嫌われてもいい、嫌われる覚悟を持つことは自立することでもある
同じオーガニック業界で独立をしているまことちゃんと話していたのですが、彼女はサロンというサービス業をメインでやっているからこそ、笑顔が大事だし、
怒りのエネルギーはそれに合わない。だからお客様に接する時の自分を整えるためには、厳しい態度でスタッフやメンバーに叱ったりすることは出来ないし仕事のスタイルには向いていないことに気がついたということを言っていました。
対面のお客様に対してプロフェッショナルな精神があるからこそ成る可く多くの方から好かれる必要性がある。
あえてそういうスタイルをキープしていると。
プロとしてとても、素晴らしいことだと思います。
一方私は対面の仕事は余りないという真逆なスタイルの仕事をしています。
典型的なオフィスワーカー。
たまにセミナーに登壇したり、イベントに行ったりはしますが、黙々と仕事をすることが得意なタイプです。
働くことを楽しんでいるし、働くこと自体が性に合っているから常にワクワクしている。3連休よりも圧倒的に平日の方が楽しいもの。
けれども、おそらく多くの人と違う点は私は「嫌われる覚悟」を持って仕事しているということです。
私は、トップダウン型の経営は目指していなくて、むしろスタッフのレベルが高く、
一人一人が精神的にもスキル的にも自立していて自走できる、でもサポートもしあえるようなチームのスタイルが理想モデルだと考えています。
だから、私の下にもどんどんチームに対してリーダーシップを発揮できるようなマネジメントレベルのスタッフをゆくゆくは、育てていきたいと考えています。
でも、やはり、その過程で厳しいことを、言いたくないけれど言わなくてはならない側面もあるのは確かです。
しかし、私は短期的な関係性であれば厳しいことはむしろ、言わないかもしれません。
仮に、直ぐ関係性が終わると確信している相手にいちいち厳しいことってむしろ言う体力すら勿体無いと思うものです。
だから、私は別に厳しいことを言って、嫌われてもいいとすら考えています。
長期的な観点で物事を捉えているので、この瞬間たとえ、嫌われ役でも構わない。
まあ、代表なんてだいたいそんなもんかなと。
ニコニコしていて周りからはいい人だよね、と好かれているけれど、
いつも人から嫌われるのを恐れていて、誰にも何も言えず、言いなりになり、結果を残せない優柔不断なタイプはリーダーには不向きです。
そう割り切ってからはかなり楽になった気も、します。
確かにかつて、学生時代、私もある程度誰かに好かれたいとかそういう欲望がありました。
しかしある時気がついたのは、嫌われたからといって直ぐ私の元を去る人ならば、それまでの関係性だった、ということでした。
本当に、正しいと思った道を突き進む。
浅はかなその場限りの関係性に依存したいがために、
思ってもいないことばかり言ったり、好かれるためだけの笑顔を振りまいたり、ゴマをすったりなどの違和感のある行動をすることを私は望みません。
嫌われる勇気という本もありますが、そこに書いてある通り、
実は、嫌われる覚悟を持つということは、「誰から嫌われてもいい」とわざと他の人から嫌われるような喧嘩腰の言動をくりかえすということではないです。
他の人の目だけを気にした行動はしないこと。
他者の軸で生きるのではなく、自分の軸で生きる。
一本筋を通した言動をする。
こういう生き方をしていると、道を踏み外すことはないですし、プラスのエネルギーで満ち溢れるようになります。
そうなると、自分のエネルギーとは違う人は、勝手に衝突したり、あるいは離れていきます。
一見「嫌われた」ように見えますが、本当に嫌われているのではなく、単に波長が合わなくなっただけのこと。
他者から嫌われるよりも怖いことはなんだかわかりますか?
それは自分の心に嘘をついて、自分が嫌いになることです。
たとえ誰かから裏切られたとしても、自分を信じてあげてほしい。
あなたは今、本当に、正しいと思った真っ当な道を、嘘ない心で突き進むことが出来ていますか。
嫌われる覚悟というのは、最大限、「今」にフォーカスして本当の意味で、心身ともに自立することそう定義したいと思います。
この記事が気に入ったら
いいね!しよう