「そのトマトは、あなたが望む環境で育ったものですか?」オーガニックを30年以上追求した「ポラン」創業者にオーガニック農業の歴史と真髄を聞いてみた。
本物のオーガニックが見つかるオーガニックショップ
皆さんは考えたことはありますか?
現代のオーガニックではなく、30年前の日本のオーガニックのことを。
時代を生きている私たち。
今、自然食品店やスーパーをはじめとし、実に様々な手段でオーガニックなものを消費していますが、
いったいどれだけの方が日本の農業の歴史や、オーガニックの成り立ちについて知っているというのでしょう?
ただなんとなく、「オーガニックなものを手に取っている」という方も多いのではないでしょうか。
自分が生まれる前、日本の農業がどうであったかとか。
農薬を使わない安全な作物がもっとあったのではなかろうかとか。
そんなことは、なかなか考える機会もないでしょう。
世界的にみればまだまだ発展途上の日本。
それでも、少しずつ今消費者の意識は変わり始めています。
私もこのメディア立ち上げをする前からオーガニックなものに対して関心があり、
オーガニックを意識始めたのは大体6年前くらいのことでした。
なんと30年以上も前からオーガニックを広めるための地道な活動をされている方にお話を伺ってきました。
今回、オーガニックスーパーの運営、オーガニックフーズデリバリ、卸売など、全国各地に有機農業生産者とのネットワークをもつ
NPO法人ポラン広場東京、株式会社ポラン オーガニックフーズ デリバリ代表の神足(こうたり)義博さんにお話しを伺ってきました。
※以下の記述はは筆者である私の言葉でわかりやすくかみ砕いたものになりますので、
実際の会話内容とは異なることをご了承ください。
日本では今オーガニックがブームになりつつありますが、
数十年前の日本はどうだったのでしょうか。
神足:大前提でこれから話すお話は、
日本全国でなされている、農薬を使用した「慣行栽培」を貶めるものではないとお伝えしたいと思います。
戦争後の日本がどう変化していったか。
水俣病などの公害病の発生から、大規模な自然破壊。「巨大リスク」を背負う近代化へ。
農業にはまず、農業従事者の高齢化など、根本的な問題がありますが
根本的なことを知るには日本の歴史にさかのぼらねばなりません。
1945年、日本は太平洋戦争に敗戦をしました。
朝鮮戦争の休戦後はニクソンショックから第一次オイルショックまで様々な出来事がありました。
こうして、日本は世界の先進国の3本の指にはいるようになりました。
日本の成長の背景の中で、皆さんもご存じの水俣病をはじめとした四大公害病の発症が起きました。
ここにきて、産業からの負の部分が顕在化するようになったわけです。
四大公害病は氷山の一角にしかすぎません。
その後、工業地帯が出現し、大規模な自然破壊がなされていきました。
原発などもふくめ「巨大なリスク」を背負う時代になっていったのです。
日本の農業も同様に、明治維新の時「富国強兵」ということで近代化が進みました。
西洋の自然観を取り入れた結果。
人間たちのエゴで自然をねじふせる形での慣行栽培での「農業」が始まる。
ところで、西洋の自然観はご存知ですか?
神がある。
その下に人間がある。
その下に自然がある。
つまり、人間が自然を支配し利用するという価値観です。
農業が近代化する前。
日本はどうだったかお伝えしましょう。
日本は、自然と共生するように生きていました。
支配したりねじ伏せたりするのではなく、海があり陸地があり、山もあり・・・
もともと存在していた「自然と共生する」という生き方がなされていました。
かつて、日本が西洋から唯一とりいれなかったものは農学でした。
しかし、それはある意味では当たり前のことでした。
農業には風土がつきもので、気候や環境が違えばやり方も違う。
風土にマッチしないのですからそれぞれの土地のやり方があって当たり前。
ところが、戦後、西洋の思想をとりいれることによって自然をねじふせるようになりました。
つまり、慣行栽培を利用するようになったのです。
農薬や化学肥料を投入するようになりました。
品種改良も高度にすすんでいくようになりました。
土の中にいる菌類や虫などの生命のバランスがくずれていきます。
植物にとっては不自然なことです。当然、病気が発生します。
欧米はどうであったか。
「ポラン広場」の成り立ち
アジアのモンスーン地帯の循環型農業を西洋の人が読み解いて、名付けたもの
それが「オーガニック」でした。
日本で一番最初に有機と名付けたのは有機農業研究会(1971)。
日本でオーガニックが知られる前から、
当時アメリカ、ヨーロッパではすでに「オーガニック」というものが形として存在していました。
具体的な商品としてある、というところまで実現されていたのです。
10年以上、日本は遅れていたということです。
ここで、「有機農業」という考え方があることに私たちは気づかされたわけです。
我々はオーガニックを有機という風に名付けてスタートしました。
『複合汚染』がきっかけで農薬や化学汚染に関して注目が集まる。
1974年 10月14日から1975年
6月30日まで朝日新聞に連載された有吉佐和子の長編小説『複合汚染』が連載中から大きな反響を呼びました。
これは国内に大きな衝撃を与え、とても広く読まれるようになりました。
「消費者が食べるものに、農薬や化学肥料が使われている。」
当然消費者からは批判が殺到しました。
生産者の一部も「これはおかしいかもしれない」と気づきはじめました。
99パーセントといっても過言ではないほど、
大きく反響を呼んだのは誰だったと思いますか?
それは日本のお母さんです。
お母さんがこの本によって、事実を知り、目を開かされることになりました。それはなぜか?
お子さんがいたり、おなかの中に子供がいるお母さんは必然的に、次の命というものにかかわっているからです。 確かにIN YOU読者さんも圧倒的に女性やお母さん世代が多いですね。
これがきっかけで日本、そしてポランはどのように変化していったのですか。
明治の頃、95パーセントはみんな「百姓」だったことをご存じですか。
しかし今はたったの5パーセントです。
完全に逆転しています。
当時、茨城で小さな地域の有機に関係するコミュニティができるようになりました。
有機の取り組みをする人やお店を構える人たちと組んで、
活動し始めたのがポランの最初の取り組みでした。
どんな考えでいるのかということを皆で話し合って、生産者に直接持っていくという活動をしました。
生産者と消費者と流通が三者一体で、お互いに協力し合うという構図。
生産者には再生産ができるように、正当な値段をつけて、買い支えるという構図を作りました。
そして、消費者のネットワークができていきました。
生産者は生産者であっという間に4年またずに増え始めました。
中でも、消費者が一番力が強かったといえます。
その流れで、日本全国を結ぼうという活動もありました。
国産有機。マクロビオティックで例えるなら日本の身土不二ですね。
点在しているものを線につなげて面にしていく作業です。
年々追うごとに、全国に生産者や加工業者も増えてきてどんどん具体化していきました。
84年に今の「ポラン広場」という名前にしました。
当時、あったのは元気と希望。そのほかには何もありませんでした。
私が生まれる前からオーガニックの活動をされていたことに頭が下がります。
オーガニックなものを1から広める中で何か困難なことは?
有機とは何か、という定義が当時日本には存在していなかった。
一方で同時に大きな壁もできました。
70年後半から生産者とつながってやってきたのですが、
肝心な「有機の定義」がありませんでした。
10人いれば10通りの有機農業のやり方があったのです。
一人ひとり、違ったオーガニックのイメージを持っていました。
「化学肥料」を減らせばオーガニックだという人。
使わざるを得ないものについては使ってもいいという人。
除草剤は消費者とは関係がないから使ってもいいという人。
自分の中で理解できる「オーガニック」をそれぞれの考えで実践していたのです。
石油化学に依存した高度科学技術による農薬を排除するという考えは全くなかったのです。
もちろんその時代でも一部の諸先生方は研究をされていて、有機農業の基準を持っていらっしゃいました。
でもその当時農家たちにはなかったんです。
基準も実践力も。
そこで私はこう、思いました
「有機農業はできない。日本では。」と。
しかしその時にアメリカにすでに州ごとに認証制度というものがありました。
有機に明確なガイドラインを設けようと提案したところ、
農家からはブーイングの嵐。
1989年11月、農家が集まり、今後アメリカで行われているような明確なガイドラインをもうけ
照らし合わせてやっていきたいという話をしました。
当然農家からはブーイングが巻き起こりました。
反対の声が次々と起こりました。「有機は、自分たちでやってきたものだった」
「ガイドラインに基づいてやるなんて嫌だ」
「風土が違うので一つのものでできるわけがない」
といった意見です。
しかし我々ポランは、
自分たちの生活のためだけでなく、オーガニックを「社会化」するためにやっているのではないか。そう伝えました。
すると農家たちには、「社会化」という言葉が響いたのでしょう。
農家の方からも理解を得ることができまして、
89年に合意が付きましたのでそこで初めて、質というものが担保されていきました。
ハワードやシュタイナーの有機農業などの書物も参考にしながら、
除草剤は使ってはいけないとかいろいろな基準を設けたのです。
単なるルールではなく、
農家たちに「夢と希望」を与えるキーワードが響いたのですね。
2001年から有機JASがスタート。
その後、2001年からJASが施行されるようになりました。
我々が考えた基準は、JASにおいてもクリアされていました。
ところがJASができてからも、流通面でいろいろと問題がありました。
農家が自分で作ったものを自分で自由に出せる、というわけではなかったのです。地域の指導の下でないと、そもそも市場に出せない、という前提の条件があったのです。
JASは日本の農業に大きなインパクトを与えたかもしれませんが、
基準があればすべて解決というわけではありませんよね。
ところで、自分たち食べる分の作物だけよけて、出荷する野菜には農薬が使われているという話をよく聞きます。
一方で消費者は安全なものが食べたいと言う。
生産者と消費者の間にどうしてこのようなギャップがあるのでしょうか。
消費者は一円でも安く買いたい
生産者は1円でも高く売りたい。
人間が間に介在しないので作り手側に、「誰の体を養っている」という考えがなくなっていく。
日本が近代化を進める中、農業も近代化していきました。
雨風は障害
土は根っこも、障害
虫は制圧する敵である
草も敵
つまり、邪魔なものは薬でおさえるというやり方。
とにかく早く効率的にどれだけたくさん量産できるかということです。同じ土地でどれだけたくさんの作物をとれるのか。
それが優秀な農家であるかどうかを決める基準だったのです。
しかしそんなやり方では当然のごとく、生産者は消費者の顔が見えなくなっていきます。
近郊で畑をやっていれば町が見えますよね。
ぼんやりとでも。でも、自分が作ったものがどこで誰が食べているのかが見えない。
気が付いたら、箱に入っている。
そんな風に経路が広くなればなるほど、農家は消費者のことが見えなくなりました。
人間が間に介在しないので「誰の体を養っている」という考えがなくなっていきます。
たとえ健康を顧みない非人間的なことをしていたとしても、
最後に手元に残るのはお金だけなのですから。
これは、「誰の責任」ということではなく社会の構造、背景がそうであるということでした。
農家からすると残留農薬の影響について、理解していてもいいはずですが、
除草剤は関係ない、とか人間にとって毒になるものを国が許可するわけがないとか自分の都合の良いように論理を曲げて解釈するようになりました。
問題なのは生産者にとって消費者は特別味方のような存在ではなかった・・ということですね。
消費者は一円でも安く買いたい
生産者は1円でも高く売りたい。
このような関係性では難しいです。
健康云々ではなく食べられるものならOKという感覚が成立していきました。
農家ばかりではなく、
製造者は、増量するために食品でないケミカルなものを入れたりするようになりました。
昔はもっとわかりやすかったですよ。常温で「たらこ」がおかれていても腐らないとか。
しかし現代社会では、もっと巧みに偽装されている。
法の目をかいくぐるメーカーも増えていきました。
それは悲しい現実ですね。本来、生産者は食べてくれる消費者のことを考えなければなりませんし、
消費者は生産者に良いものを作ってもらうために「安く買おう」とばかりするのではなく、リスペクトが必要なのに。
これからの社会はどうなるのでしょうか?
健康志向・自然派志向は時代ごとにうねりがあります。
過去を見ると、一つ目の転機は複合汚染が出版されたとき。
それから、もう一つは海外から来た、マクロビオティックもそう。
海外からきたものを逆輸入・ライフスタイルという要素が加わって2000年の有機JAS認定では、日本に有機の認知度が高まりました。
海外からの輸入が増えていきました。無添加食品も増えていきました。
オーガニックコスメが海外から輸入されるようになり、ポランでも、消費者からいろいろな要望が来ました。
食品だけでなく口紅はないの、とか生理用品はないの、とか。
そして、今日本は消費においては、下り坂に進んでいます。
消費社会というのは成熟を遂げいずれ縮小しますが、今の日本は確実に下り坂です。
だからこそいいものを厳選して、吟味して選んでいく時代になったとも言えます。
では、神足さんが考える、今後あるべきオーガニックの形はどのようなものでしょうか。
私が考える本当のオーガニックの姿とは。
今ある有機農業のほとんどが国が認める有機肥料や農薬に置き換えただけの農業である事実
ところで、オーガニックというものはもともとは批判があって、スタートしたものでした。
「時代が生み出したもの」という見方が正しいですね。
しかし、2000年以降のオーガニックはちょっと違います。
現代では有機農業そのものが既に、かく乱状態にあります。
かく乱をいかに最小限に収め土壌生態系を保つのかというのが有機農業の根幹です。
現在有機と呼ばれているもののほとんどが、本来あるべき有機農法の形をとっていません。
慣行農法の農薬を有機のものに変えただけの従来と変わらない農法です。
私たちは、農薬、肥料の投与量を減らし、
作物そのものの成長に沿った感じの低栄養成長型自然農法に移行していくべきであると考えています。
2001年から施工されたJASは、少し問題があるにしても社会化としてはいい政策だと私は思っていました。
でも、あれから時が経過しました。
70年のころとバブル崩壊後では生活もすべて変わったのです。
若い人は、その違いにすら気づかないかもしれないですけれど。
守りに入った日本は、今、新しいことを研究したり追及することがなくなりつつあります。
現在国内で定められているものは、あくまで規格であり、基準ではない。
私たちはそろそろ、吟味して次のステージに行くことが必要です。
今、すでに有機農業をやっている人たちにも吟味していただき、もっと深く検証してもらって、改善してもらうことが必要です。それを進めるのは生産者、そして消費者一人ひとりです。
国や組織を待つのはダメ。市民が文化をつくるわけですから。
ポランが考えているのは、次に向かうためのキックオフ
3.11があってさらに日本は、変わりました。
私たち日本人も「このままではいけないのではないか」と考え、デモや行動をするようになりました。
ここにきてまた、改めてオーガニックというものが人々の中に少しずつ注目されるようになってきたわけですね。
今はとても大切な節目。
これからナチュラルな文化や、政治を作っていこう。ということですね。
3.11を経て、日本にも必ずオーガニックという要素がプラスされていくのですから。
沈黙の春1962年。
成長の限界1972年。
・・・今までにもいくつかの節目はありました。
それでもいまだに社会にオーガニックが認められていないのはなぜか。
2項対立では、問題は解決しない
警鐘がならされているのに。
崩壊しているのに。
なぜネオニコチノイドは広がっていくのか?
脱原発も一緒です。
巨大リスクがあるのになぜ、人は普通に生活しているのか。
反発者もいるのに、どうにかしてでも抑制できないのか?
要するに2項対立では、問題は解決しないということです。
物事にはかならず反対派、賛成派が存在しています。
ほかの意見を聞かずに、貶める方向に行ってしまいがちですが今後は、決して2項対立ではない方法を探すことが大事です。
物事を進めていくには、「リーダー」が必要ですね。
自然農法がよさそう、というのは皆さん漠然とわかっていると思いますけれど、
実際のところ、自然農法にはどのような可能性がありますか。
自然農法の可能性
人間は希望がなくては生きられない。
自然農法は、一つの答え。
自然農法の良さ、それは人間に希望が持てるようになるということでしょうか。
閉塞状態にある世界。
地球は今、激動期にはいっています。
火山や地震などもこれからも起こるでしょう。
これは、地球レベルの話です。
でもきっと人間はこれを克服します。
打ちのめされながらも、立ち直っていくわけです。
自然農法は、人間にとって一つの希望になりえます。
人間は希望がなくては生きられない。
自然農法は、一つの答えだと思います。
農村部は高齢化しています。
70代が平均年齢になる日も近く、このままでは農業破たんも近いでしょう。
希望のない農業に若人は参入はしません。
ですので、きちんとこういう農業をしていくことで若者たちにも希望を見せることができるのです。
ありがとうございます。
私がメディアを運営していて一番思うことですが、
コンテンツの中でも、「ウケるもの」と「ウケないもの」とがあります。
一つ言えるのは、消費者の一番の関心ごとは「10年後の地球の話」ではなく、
「今自分の目の前の皿に乗っている、食品のこと」です。
消費者にとって「農業」とか「持続可能な社会」とか「環境保護」とか「社会を変える」ということって
本当は自分事なのですが、
なんとなく「遠い世界」のものに感じてしまう人も多いと思うのです。
そんな消費者に対して何か提言することはありますか?
消費者にはもっと、欲望してもらいたい。
「そのトマトは、あなたが望む環境で育ったものなのですか?」と自分に問いかけてみてほしい。
オーガニックというと、「エコであること」とか「省エネ」とか「禁欲的なイメージ」ととらえられる場合がありますが、
私はそうではなく、
もっと欲望しませんか?
ということを提言したいです。
わかりやすい方法を伝えます。
毎朝おきたら家があれば家の掃除をしますよね。
一番身近な環境は自分の体です。
口と肛門は外ですね。
体外の環境をきれいにしたい。
体内も、同じことです。
台所にきて自分の口にはいるまでは体外のもの。
でも、そのトマトがあなたの口に入ったらそれはもう体内です。
そのトマトは、あなたが望む環境で育っているものなのですか?と、問いかけてみてほしい。
消費者は生産者ともっと、同じところに立ってもいいと思うのです。
つまりパッケージに記載されたJASマークをみて云々、ではなく
作っている人に対して、「私は口に入れるものに対して、努力しています。」と伝えるのです。
「だからあなたも、クリーンなものを作るための努力をしてください。」ということです。
世界を変える、環境を守るとかそういうことが難しく感じるようなら、自分が持続する。
ローマクラブが72年に人間の行動パターンを提示しました。
それは、人間が持つ最も高い関心ごとは遠い未来のことではなく来週などの近い未来であるということでした。
これはデータとして出ている事実であり変えようのない人間の傾向なんです。
だから、お母さんであるあなたも、自分のために、欲望してほしい。
あなた自身を、そしてあなたの家族を守るために。
徹底して「何を選ぶかについて」持続をするということ。
世界を変える、環境を守るとかそういうことが難しく感じるようなら、自分が持続する。
それだけでいいのです。
まずは自分が持続する。
消費者が生きる社会は自分の延長線上にあるのですから。
やれるところからやろう。
トマトのことはトマトにきけ
自分に食べるものは自分に聞け
全部の食品をオーガニックにすることはできない。
では、まずは野菜とか豆腐とか少しずつでも変えていくこと。
目の前にある食べ物について考えるときが来ています。
何かを食べる前に、この食品は果たして10年後も口にしているものなのか?ということを問いかけてみてください。
大半のものは食べられないはずです。
一時的な誇大広告やCMを見て自分の体を作る必要はありません。
何を食べるのかは、自分の体に聞いたほうがいい。
農家は稲のことは稲にきけ。
トマトのことはトマトにきけ。
百姓の言葉で稲のことは稲にきけという言葉があります。
つまり、自分に食べるものは自分に聞けということです。
しばらく続けてみる。私の場合3年目になってスムージーはとても良いと思いました。オーガニック100パーセントにする必要はありません。
まずは、10パーセントにしましょう。
未来は今の中にあるのですから。
筆者からひと言。
今回偶然にも同じ「オーガニックを広める」という活動を通じてご縁をいただいたポラン代表「神足」さん。
神足さんは、日本の激動数十年を経験されていますが、本当に引き出しが豊富。
かたや3年半、かたや30年間と年月には大きな差があれど、双方オーガニックにかける情熱や思いには共通のものがあったと思います。
農業の歴史に至るまでリアリティのある非常に興味深いお話をいただき、私としても驚きの連続でした。
国内でオーガニックにまつわる活動の先駆者でもあり、カリスマ的存在でもある神足さん。
しかし、30年間継続することは楽ではないはずです。
当時「あったのは元気と希望だけだった」と語る、神足さんの30年間の道筋は
決して平坦なことばかりではなかったことは想像に難くありません。
農家との地道なコミュニケーション、全国農家とのネットワーク、消費者とのコミュニティ。
ひとつひとつ、地味に築き上げてきたことが今につながっています。
30年間の神足さんの活動について伺って、私自身励まされました。
神足さんが目指しているのは目先の利益や、目先の食品流通ルートのことではありませんでした。
「オーガニックの社会化」
そう、当時の農家たちにも希望を与えた、たった一つのこのキーワード。
私も頑張って続けていこう。
そんな風に思える、心に残る言葉です。
もちろん続けることも、社会化も、決して簡単なことではありません。
しかし、継続は必ず力になる。
そんなことを教わりました。消費者と生産者の間にある垣根をなくして、
もっと、ダイレクトに濃密なコミュニケーションを繰り広げるべき時がきたのかもしれません。
中でも一番強い力を持つのは意見を言える、「消費者」。
そう、それはこれを読んでいる「あなた」なのです。
あなたに今日からできること、それは神足さんからのメッセージから読み解いていただけると幸いです。
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