5人に1人いるという「HSP」とは? |産まれつきの生きづらさを抱えていた私が見つけた、幸せへのヒント
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5人に1人いるという「HSP」とは?
産まれつきの生きづらさを抱えていた
私が見つけた、幸せへのヒント
近年、耳にする機会が増えた「HSP」。
「HSP?それ何?」と、思われた方もあともう少しだけ、
読み進めてみてくださいね。
あなたは、日々の生活の中で
このように感じることはありませんか?
□曇りなのに眩しいと感じる
□長い時間TVを見ていられない
□人混みは出来るだけ避けたい
□相手を思いやるあまり、自分の意見が言えない
□部屋が散らかっていると落ち着かない
□一人の時間が必要だ
いくつも当てはまった方は、もしかするとHSPかもしれません。
「HSP」とは?
HSPはHighly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)の略で、
産まれつき、視覚や聴覚、嗅覚といった感覚や、他人の気持ちや態度など
に対する反応が極度に鋭敏な人のこと。
一般に繊細・神経質・内向的と言われる「気質」を強く持った人に多くみられ、
一説には、人口の約20%がHSPだとも言われます。
よく似た言葉にHSCがありますが、これはHighly Sensitive Childrenの略で、
HSPの子どもを指しています。
HSPについては、セルフチェックできるサイトがありますので、
ぜひ一度試してみてください。
「HSC」だった私のこと
この記事を書いている私、現在成人したManami自身もHSPです。私の幼少期は、HSPやHSCについてはまだよく知られておらず、
その指南書などもなかったため、生きづらさをしばしば感じながらも、
心地よく過ごす方法をどうにか手探りで見つけてようとしてきました。
母の話では、私は癇癪を良く起こす子どもで、育児には手を焼いたそうです。
曇りの日でも眩しくて仕方なく、毎日しかめっ面をしていたことから
“眩しがり屋さん”と呼ばれていました。
運動会や遠足で撮影した写真はいつも目を細めていてまともな写真がありません。
小学生時代はドッジボールが大嫌いで、誘われる前に図書館に逃げる込むのが
休み時間の定番の過ごし方でした。
ボールが当たった子の痛みを想像するだけで不快な気分になり、
本の世界にいる間だけは心穏やかに過ごすことができたのです。
烏龍茶が大のお気に入りで、「今日は烏龍茶はないの。麦茶よ。」と母に言われた日には、
まるで地獄に突き落とされたかのようなショックを受けて大発狂していました。
こだわりが人一倍強い上に、まだ子どもで自分をコントロールする術を知りませんでした。
母は私を育てるのには本当に苦労した、と話します。
「自閉症」とは異なるHSP・HSC
私が抱える状態は、「自閉スペクトラム症」と間違えられらやすいのですが、HSP・HSCと自閉スペクトラム症には明らかな違いがあります。
人の気持ちを察することが不得手な自閉スペクトラム症と異なり、
HSCは人の気持ちをくみ取ること自体の能力はかなり高いことが多いのです。
(参考『マンガでわかるHSCの子育てハッピーアドバイス』明橋大二/1万年堂出版)
今思えば、小学生時代から私は「どうして私だけこんな風に感じるのだろう?
私はみんなと違うのかもしれない。」としばしば考えていました。
それでも、自分をだましだまし、協調性を心がけて過ごし続けました。
しかし、中学2年生を迎えた私に、大きな試練が立ちはだかったのです。
13歳の葛藤。「HSC」の私が“透明人間”になった日
私にとって、大きな転機となった出来事についてし話す前に大切なことを書きます。
HSCは与えられた1の情報で10のことを想像します。
その想像には良くないイメージしばしば含まれます。
例えば、母の表情が暗かっただけで、
「あ、お母さん元気ないな。
お父さんと喧嘩したのかな。
それとも、おばあちゃんと喧嘩したのかな。
お仕事で嫌なことがあったのかもしれない。
体調が悪いのかな。
疲れてるだけかな。
何か、声をかけようかな。
それとも明るく話しかけてマッサージでもしてあげようかな。
いや、今はそっとしておいた方がいいかも。
・・・でも、この前も何も声をかけてあげられなかったから今日は何か話そう。
あぁ、でも話かけにくいな。」
とこんな風に一瞬の間にありとあらゆることを考えてしまいます。
読んで疲れましたか?
そう、HSCやHSPの心の内は常に思考(心配や不安を含む)でいっぱいです。
一日のうちに何回も何回も何回も何回もこの瞬間がやってきます。
この瞬間の連続です。
考えたくなくても次々と湧き上がってくるのです。
そんな私の中学時代のお話です。
その日は、ある時突然やって来た
中学2年生の春、新しいクラスにも慣れて楽しい毎日を送っていた矢先でした。
確かに私はここにいるのに、私の声が誰にも届きません。
確かに私は存在しているのに、その姿は誰の目にも映らなくなりました。
存在しないものとして扱われました。
私は“透明人間”になったのです。
誰にも相談できなかったので、少しの間は我慢して登校しました。
当時の私にはすごく長く感じましたが、おそらく2週間くらいだったと思います。
「どうして急に話してくれなくなったんだろう。
私、何か悪いことしたかな。
何か悪いこと言ったかな。
昨日一緒にトイレに行かなかったからかな。
それともバイバイするときに手を振らなかったからかな。
謝ろうかな。
でも、何を?
あの子だったら話してくれるかな。
それともあの子?
でも、また無視されたら悲しいから一人でいたほうがいいな。」
毎日、四六時中、2週間ずっとこんなことを考え続けていたら、
気力がなくなってしまいました。
そしてある日、私は授業中に学校を出ました。
その後、私がこの中学校の門をくぐることはありませんでした。
人生で最も混沌とした4か月間の始まりでした。
不登校だった4ヶ月間の記憶
そして私は、母を始め、周囲の大人たちに透明人間になってしまったことをカミングアウト(告白)しました。
すると、学校に行かなくて良いと許されたのです。
私は心から安堵しました。
来る日も来る日も自分の部屋の中で過ごしました。
家は、私が存在することを許される唯一の場所でした。
その時は母がカーテンを開けるのが、本当に嫌でした。
誰かがベランダまで、私を笑いに来ている気がしました。
だから、窓がある部屋には近づきませんでした。
一人で留守番をする時には窓に鍵がかかっているか、
閉めたカーテンから光がもれていないか、
何度も確認してもらいました。
今思えば、この頃はHSCを通り越して、何か別の精神疾患を抱えていたと思います。
ただ、病院に足を運ぶことができなかったので、病名はわかりません。
学校に行く? それとも。。。
母は私の代わりに何度も学校に出向き、先生たちと話し合っているようでした。1学期が終わる頃、母が私に言いました。
「2学期になったら学校に行こう。
お母さんはあなたに、いじめに負けない強い子になってほしいの。」
これを聞いた私は「死ななければいけない」と思いました。
私はどうしても強い子にはなれないから、もうこの家にも存在してはいけない
と思うようになったのです。
死にたがる13歳の我が子を目の前に、母はどんな気持ちだったのか。
日に日に弱っていく母を見て、
「母が苦しいのは私のせいだ」、
「このままではいられない」と考えました。
そして、私たち親子は転校という道を選ぶことになります。
転校という大きな選択
隣町に住んでいた祖母の住所を形の上だけ借りて、越境入学ならぬ越境転校することを決意した私。
4ヶ月ぶりに家を出ることになりました。
転校といっても住んでいる家の場所は変わりません。
私を透明人間にした元友人たちの陣地で私は生活しているのです。
どうしたら見つからずに隣町の学校に登校できるか、考えに考えました。
まずは、みんなが登校する時間を避けること。
中学生が登校するには早すぎる時間に家を出ました。
しかも、傘をさして。晴れの日も、雨の日も、曇りの日も、傘をさして。
出来るだけ下を向いて。誰かに見つかっても、すぐに顔を隠せるように。
毎日、始業の1時間近く前に学校に到着します。
野球部の朝練を横目に、誰もいない教室で日記を書きながら
午前8時30分を待ちました。
この時間が一日のうちで一番好きでした。
転校してからは毎日真面目に学校に行きました。
一日も休みませんでした。
特別に親しい友人は作りませんでした。
学校が終わると、解放された囚人のように、逃げるように家に戻りました。
もちろん帰りも傘をさします。
遠足や修学旅行もあったはずですが、さっぱり記憶にありません。
私は毎日この奇行を続けました。
その行動は奇妙そのものでしたが、
母も家族も新しい学校のクラスメイトたちも
私を馬鹿にしたりは一切しませんでした。
そして、やってきた卒業式。
毎日淡々と通っただけの中学生活。
ずっと下を向いて歩くことに徹していたので、
思い出はスニーカーを履いた自分の足が一歩一歩前に出る映像だけ。
母を安心させるためだけに通った1年半。
思い入れのないはずの転校先の卒業式。
“旅立ちの日に”の伴奏が流れると、一番先に泣き始めたのは私でした。
歌わなければならないのに、涙がぽろぽろこぼれて止まりません。
嗚咽するほど泣いて、歌は全く歌えませんでした。
「やっと終わった。やっと終わった。やっと終わった。」
心の中で自分の声が何度も何度もこだましていました。
自分を隠す生活がやっと終わったのです。
存在してはいけない自分の日々がやっと終わったのです。
そして、20年後の「HSC」
転校後、一日も休まず学校に通い、「皆勤賞」をもらったことは私の自信となりました。
中学の卒業式で「これからは人生を楽しもう!笑顔で過ごそう!」と決めた私は、
不登校児から一転。高校では多くの友人に恵まれました。
「私がHSCだったから、いじめに耐えられなかったのか」、
「それともいじめそのもが過酷なものだったのか」、20年経った今でも判断できません。
大切なのは、自分が何者なのかを知ることだった
そして「自分の心はほかの人と比べて弱いものなのかもしれない」と13歳で気づくことができたのは、私にとって大きな収穫でした。
中学時代の不登校の経験は、その後、HSPとして生きていかなければならない
ならなかった私の、人生の指針となったのです。
その後、高校時代に「HSP」という概念に出会い、
自分が、5人に1人の、感受性が非常に強く、敏感な気質を持った人間だということを知ります。
心の弱さだと決め付け、自分を責めていたので、
これがHSPという気質なのだと知れただけで、
ずいぶん心が楽になったことを覚えています。
現在は心だけでなく五感も敏感な自分自身のために、
『地球に優しい生活』をテーマに心地よい毎日を送ろうとしています。
とはいえ、相変わらず光には弱く、PCやスマホの画面照度は一番暗い設定です。
夜過ごす時も小さな照明ひとつ。
名前を呼ばれただけで驚き、道路でクラクションを鳴らされると
心臓が高ぶって数秒間、動けなくなります。
そして、動物にもHSPがいることを知って、
ヴィーガンのライフスタイルを選びました。
今は、こんな自分が好きです。
少しずつ知られつつある「HSP」。
その未来とは?
1996年にエレイン・N・アーロン博士が「HSP」という概念を提唱してから、20年以上の月日が経ちました。
日本でもHSPに関連する書籍が多く出版され、
日本語のHSP診断サイトも公開されて、HSPが徐々に知られつつあります。
最近ではロンドンブーツの田村淳さんがHSPだということをカミングアウトされて、
私たちHSPの間では大きな話題となりました。
また、SNSでご自身の生活や心のうちを発信されている方もいらっしゃいます。
私のようなHSPがどのようにしてHSC時代を過ごしたかを発信することで、
今現在苦しんでいるHSCやHSCを育てている親御さんのお役に立てたらと切に願います。
どうか、全ての子どもたちの未来が明るいものになりますように。
最後までお読みいただき、感謝いたします。ありがとうございました。
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